どちらかといえば悪魔の仕業

2010/04/16

マンガ・アニメ・小説・映画などのエンターテイメント=娯楽、というのは常識や道徳なるものに叛いていればいるほど良い。
たしかに文部科学省推薦のマンガやアニメなども世の中にはあるが、たいていは実に退屈な、観る時間があったらタバコでも吸っている方がまだ社会勉強になるようなものばかり、といってもいいだろう。もっとも、中には善良かつ無能な選考委員の目をすり抜けて、一見したところ無害な、それでいて伝えるべき人間にはしっかりと悪徳を送り届ける作品もある。

天空の城ラピュタ
宮崎駿監督
スタジオジブリ
東映
1986年
文化庁優秀映画
中央児童福祉審議会特別推薦
ほか受賞多数

子供に見せたい、次世代に伝えたい、世界に発信したい、etc、いうまでもなく日本の誇るアニメーションの筆頭にあげられる作品なのだが。その内容たるや、未成年の誘拐・強盗・民間人への無差別発砲・略奪、そして最後はムスカ大佐によるジェノサイド(「あっはっは、見ろ人がゴミのようだ!!」)で締めくくられるという、実に立派なものだ。
一応、悪い兵隊はすべて死に絶えて、ラピュタは手の届かない高みへ消えてしまいました。ということになっているが、実をいうとムスカ大佐は生きていて新たなラピュタ制御法と攻撃兵器を手に入れ地上へ宣戦布告する、という続編の企画が出来ないような終わり方で無いわけで。もしそんな映画がつくられたならば、たとえ三部作の第二作目だとしても喜んで観にゆく。
閑話休題。
我々は市民社会の一員として日々振る舞わねばならず、それは必然的に絶え間ない阿諛追従となるわけで、時にそれは家庭や学校・職場の人間をすべてぶち殺したいという“健全”な気持ちを生み出すことになる。
または、そんな自分を反省し懺悔を繰り返しながら生きるという方法も無くはないが、これを長く続けているとたいていの場合はウツになって、とどのつまりは中央線快速の先頭車両あたりに解決策を見いだすはめになるので止めておいた方が無難だ。
殺意までゆかなくても、殴りたい・犯したい・壊したい、etc、という“健全な欲望”といかに折り合いをつけて生きていくか?
スポーツで発散させられればなるほど健全だが、あいにくとそれだけの時間も空間も、なにより金銭的な余裕はほとんどの日本人には手の届かないものだ。
エンターテイメントで悪徳を疑似体験することは、鬱屈したストレスを発散するためのごく手軽で効果的な方法だと私は考えているし、実際の暴力事件の数の少なさもここらへんに理由があると思うのだが、これを証明できるとはまったく思えない。
ただ、数多い変痴奇論のひとつとして書いてみた。

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