いうところのJack the Ripper事件が起きたのは1888年のことだ。
いまから122年前のことになる。
当時の最新技術である銀塩写真によって撮影された被害者の遺体は、今日でも正視に耐えるものでは無い。
以来、ロンドンは性的陵辱殺人事件において、常に最先端を走り続けている。
人権の進歩と人間陵辱の過激化という、相容れないものが共に歩む社会というのはなるほど存在している。
さて、
2006年、奇しくもレイプレイ(Rapelay)発売の年に書いたblog、疫病・検疫・対症療法がレイプレイ(Rapelay)事件を考える上で参考になることを発見して、我がこと故に少し自慢したい。
さらに特殊事情に対する説明責任を読んでいただければ、この問題を日本だけのものとして考えてはならないことを解っていただけるだろう。
日本文化の都合の良いところだけ見せて、外聞の悪いところは頬被り出来る時代ではないし、さらにいうと大抵の人は都合の悪い話を聞きたがるものだ。
ところで、
冒頭に引用したハイクの最後の部分だが、はっきり言って蛇足でしかない。
というか、この最後の部分のおかげで全体の内容を、まったくダメにしてしまっている。泥の中にワインを加えたものは泥であり、ワインの中に泥を加えたものもやはり泥である、ということわざはまっくその通りだ。
いうまでもなく「黄禍論」の部分を、「白人」・「中国」・「朝鮮」に代えれば日本の状況とまったく同じだ。
さらに「歴史的芸術や国際的なメディア芸術」の部分に至っては噴飯もので、「芸術」をやっている人から一緒にするなと本気で怒られるはずだ。
前に書いたことを三度引用する。
こんなゲームをやってることを母ちゃんに知られたらきっと泣かれるだろう、ということに考えが及ばない人間はポルノに手を出してはいかん。
ポルノに関わる時には常に後ろめたい、お天道様の下を笑って歩けない、そんな気持ちを持ち続けていないとバチが当たるぞ。
…。
そんなろくでもないものを抱え込むことを私は“業”とよんでいる。